耶馬溪「青の洞門」に行ってみた!

  • Day:2017.04.05 12:19
  • Cat:観光
北九州へ行った帰り道、大分県中津市は本耶馬渓の青の洞門なる場所へ立ち寄った。
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イタリアの青の洞窟をまねてつくった名称かと思ったらさにあらず、この辺りの地名が「青」地区だから青の〜というようだ(そう思っていたのはワタシだけか…?)。「洞門」ていうのもなんだかピンとこない。洞門=洞穴(ほらあな)の入口より、隧道のほうが解りやすいように思う、なにしろ通り抜けできるのだから…。

なんでも、険しい山から山に架けた危うい橋から落ちて命をなくす事故が絶えず、それをみかねた禅海という奇特な方が重機のない時代、手彫りで隧道を掘ったものだとのこと。

なにしろ今から250年程も昔のことで真実は誰にも解らないはずだけど、手彫りの跡の残った隧道は様々に解釈されていて、小説の題材にもなったようで、その中で禅海和尚は人をあやめて改心して偉業を成し遂げた…みたいな内容らしく、現地の看板に書かれていたので、うっかり鵜呑みにしてしまった。

地元の人と話した際『この辺のひとは禅海和尚のことをあまり良い人だとおもっていない』といっていた。
だからして、ワタシの解釈は以下の通り。

禅海和尚は、もと越後の国の武士。25歳の頃出家。諸国巡礼の途中、危険な橋渡しをみて隧道を発案、藩に願い出たが着手してもらえず自ら掘ってみようと試みる。開削の日々では生活が出来ないうえに独りでは無理と判断して、青地区の住民に掘ってくれと頼み、自らは金策にまわる。藩策の仕事ではないため遅々として進まず30年余りもかかった(独りで掘ったからというのではなく)。地元人は働かされて、最後は和尚の手柄になっているから気分は良くないだろう。完成したあかつきには通行料をとったいうから和尚が業突く張りだったのではと疑いたくなった次第。現在は通行料も取らないし入道料(見物料)も取らないから素敵♪
(現在車道となっているのは重機で掘ったもの。手彫りは先端と終端しかみることが出来ない。342mと書かれていたが車道長のことか?)

ネットで検索してみたら以下に資料に基づいて書かれているであろう情報がちゃんとあった!
中津耶馬溪観光協会HPより↓
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禅海和尚の手彫りのトンネル
江戸時代、荒瀬井堰が造られたことによって山国川の水がせき止められ、樋田・青地区では川の水位が上がりました。そのため通行人は競秀峰の高い岩壁に作られ鉄の鎖を命綱にした大変危険な道を通っていました。

諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚は、この危険な道で人馬が命を落とすのを見て心を痛め、享保20年(1735年)から自力で岩壁を掘り始めました。

禅海和尚は托鉢勧進によって資金を集め、雇った石工たちとともにノミと鎚だけで掘り続け、30年余り経った明和元年(1764)、全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門を完成させました。

寛延3年(1750)には第1期工事落成記念の大供養が行われ、以降は「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事の費用に充てており、日本初の有料道路とも言われています。

青の洞門は、明治39年から翌40年にかけて行われた大改修で、完成当初の原型はかなり失われてしまいました。
現在の青の洞門には、トンネル内の一部や明かり採り窓などに、当時の面影を残す手掘り部分が残っています。
-------------------------------------------------------------------------ここまで

ふむふむ、納得なのである。
「競秀峰」一見の価値あり、そそり立つ断崖は圧巻。どこにどんな橋が架かっていたのか想像しながら散策すると楽しかったし、良い運動にもなった。
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多くの僧侶が、こういう険しいところで修行を積んで洞で生活していたのかなぁ〜
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